かどまつの競技クイズ記・旅行記

大学でクイズサークルに所属しております。日々得た知識などを豆知識として掲載していけたらと思います。また歴史(特に室町時代〜江戸時代の日本史)も好きなのでその方向に特化した記事も書いていこうと思ってます。ときどき旅行記も載せます。

歴史探訪~徳川15代をみる(前編)

 

こんばんは。前回の記事から間もないですが、もう一つのシリーズの初刊です。基本的に、ベタ問シリーズ(クイズ系)、歴史探訪シリーズ(歴史系)、旅行記シリーズの3本の柱でしばらくは続けていきたいと思います。ときどき、単発記事を入れたりするかもしれませんが。。。

記念すべき初回の内容は、徳川15代将軍です。というのは、筆者が徳川家が好きだとい

 

うだけです。よく知られているところでは、初代家康、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜といったところでしょうか。15人全員知っているという人はなかなかいらっしゃらないとも思います。今回の記事では、15人の将軍を少しづつ紹介していくので、この機会に、徳川将軍家に精通していきましょう。

15人一気に見るのは流石にしんどいので、前半7人、後半8人という構成で見ていきます。また、基本的には情報に誤りはないはずですが、微妙な錯誤があるかもしれませんので、ご了承下さい。

 

初代 家康

言わずと知れた徳川幕府創始者です。ただ、実際に彼が将軍職にあったのは2年ほどであり、息子の秀忠に将軍職を譲り自らは静岡(駿府)に移ります。ただ、実際には権力を行使していたようです。(この体制を彼の晩年の呼び名から大御所政治とも言います)書き始めると彼だけで記事が1つかけてしまいそうなので、今はこのあたりにしておきます。家康記事を別に書くかもしれません。(筆者は家康ファンの1人です)

 

2代 秀忠

初代と3代に挟まれたからか、あまり名前が知られていない2代将軍です。秀忠は家康3男です。長男の信康は切腹を命じられ死去(ここには色々いざこざがあります)、次男の秀康はその出生から家康に距離を置かれ、養子に出されたため、3男の秀忠に相続権が回ってきました。どうしても父親の家康に比べられると凡庸なイメージがあるかもしれませんが、大御所政治時代、特に家康没後はきちんとした政治手腕を発揮しています。武家諸法度禁中並公家諸法度天皇家と公家の法)を定め、また違法に城を改修した福島正則を容赦なく改易にするなど、幕府の力を強めていきました。

ここで余談ですが、秀忠は家康と共に関ヶ原合戦にも参加するわけですが、この時信州の真田昌幸真田幸村の父親)に足止めをくらい、天下分け目の大合戦に大遅刻をしてしまいます。このことで、秀忠は家康にこっぴどく叱られたということらしいです。(この時秀忠の軍隊の戦力はかなり大きいものでした。それを抜いても東軍が勝利した のはすごいことだと個人的には思ってしまいます)

3代 家光

「生まれながらの将軍」ともうたわれた三代将軍家光。先2代によって培われた江戸幕府の基礎を更に発展させていきます。彼の治世も、前半は先代秀忠が大御所として権力を持っていました。秀忠の死後から、彼は政治手腕を発揮していきます。その最たるものとして知られているものの1つは参勤交代の制度化でしょう。また、ポルトガル船の来航禁止など、いわゆる「鎖国」と呼ばれる体制を構築していきます。幕府の権力は、この家光の時代にはほぼ確立されたものになりました。

家光の時代と言えば、春日局が権力を行使した時代としても有名です。春日局は家光の乳母で、彼女は家光が幼いことから誠心誠意に彼を世話していました。家光が疱瘡にかかった時には自ら祈禱したり、家光弟の忠長が将軍職に推されたときは家康本人に直訴するなど、家光ファーストの行動を続けました。家光も春日局をひどく信頼していたようです。

 

4代 家綱

家綱の時代には先三代の武断的な政治(武力行使の政治)から後の徳治(徳による政治)への転換があったことで有名です。彼が将軍職の時、それまで横行していた殉死(主君を追って家臣が死ぬこと)を禁止しました。殉死によって優秀な人材が亡くなってしまうことを避ける意図もあったようです。また、体調がすぐれなかったこともあって、「知恵伊豆」といわれた松平信綱保科正之の補佐もありながら政治をしました。

このように、時代が下るにつれ、老中などの家来が将軍に代わり力を持つことが多くなってきます。(要は将軍が政治への興味を無くして趣味に耽ることが多くなります)

 

5代 綱吉

綱吉は、先代家綱の弟にあたります。家綱には長男が居なかったため、新たに身内を養子にして将軍職に据え置きました。綱吉自身はもともと館林藩群馬県)の藩主でした。徳川綱吉と言えば、有名な改革は生類憐みの令でしょうか。良い評価がされないことも多い法令ですが、最近再考もされてきています。(ここでは深いところにはつっこみません)

 

6代 家宣

家宣は、48歳の時と若干高齢で将軍職に任命されます。5代将軍の候補にも挙がっていましたが任命されず、6代目となりました。しかも、任命から3年の51歳で死去してしまうので、政治に携わったのは3年ほどです。彼は先代綱吉の生類憐みの令を廃止するなどの改革を進めました。また、このころは新井白石が幕僚として「正徳の治」と呼ばれる政治を展開したことでも有名です。

 

7代 家継

7代家継は、わずか4歳にして将軍職を受け継ぎました。これは、どの時代の征夷大将軍を見ても最も若い年齢での任命です。しかし、家継はわずか8歳でこの世を去ってしまいます。小学生くらいですから、やはり政治は先代から引き続き新井白石を中心とした陣営で行われました。幼い彼が任命されたのは、家宣の子が皆亡くなってしまい、最終的に彼だけが残ったからです。

 

とりあえず、初代から7代までの紹介をしてみました。ここまででかなりのボリュームですね...。今後また、後半の8人についても記事を出そうと思います。

それではまた。